押谷先生のおっしゃることは科学的に正しいです。判断できないことは判断しないという抑制的な態度は立派だと思います(TVに出る"自称専門家"も見倣ってほしい)。
しかし「だからどこでも怖れる必要がある、100%大丈夫なんて言えない」のは、これは一見、科学的に誠実であるように見えて、実は価値判断が入っています。なぜならば、「感染しないように万全を期す」見解と一心同体だからです。
「封じ込めができるし、封じ込めが必要」なのも今のところ同意しますが、問題は、これが1日や2日の短期決戦ではない点です。
封じ込めはできるでしょうよ、でもそれは一体いつ?
それまでに、一体どれだけの犠牲を払えばいいのか?
その価値は本当にあるのか?
「風邪とは全然違う」のも、科学的には正しいでしょう。一方で、天然痘とも違います。
「感染の防止」に重点を置き続けることが、いまの手持ちのリソースで、一体どこまで持続可能でしょうか。
専門家会議が設定する最悪のストーリーは「クラスターが止まらないパンデミック状態」です。
私が設定する最悪のストーリーは「パンデミック後に軽症例を全部無視してもなお、重症例すら救えない医療提供体制を招くこと」です。
専門家会議は「重症例を出さないためにも、感染機会そのものを断つ必要がある」のだと主張します。私も、それは教科書的には正しいと思います。ポピュレーションアプローチってやつですね。
ただ、感染機会そのものを断つことに「注力しすぎる」ことで、手持ちのリソースが枯渇してしまうことを、私はもっとも恐れています。
そして、そのリソースの限界は、意外と近いと思っています。
(ひょっとして、資源にどれくらいの余裕を見ているかの認識の違いが「あきらめないorあきらめる」の見解の相違の原因かなあ?)
専門家会議の見解を責めるつもりはないんです。首都圏と地方では、環境が違い過ぎますしね。
これは、もともと、こんなパンデミックを抑えられるほどには公衆衛生体制に余裕がないこと、が一番の原因で、弱点です。
「小さな政府」の代償です。
どうしようもない最悪の状態は、なんとしてもリスクヘッジして回避したい。
だから、手持ちのリソースを、なんとかして、やり繰りするしかないので、重症例に割くリソースが枯渇しないようにしたいと思っています。
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