エビデンスは使うものであって、エビデンスに使われてどうする。
「エビデンスの絶対的優位性」なんて神話なのに、「エビデンスの有無」に胡坐をかいて、歯止めを利かせる努力を怠った顛末が、原爆じゃなかったっけ?
反対した科学者もいたけど、原爆を作ったのも科学者だぜ。
科学に真っすぐ取り組むと、価値判断は自分ごときにはできないと思い知る。だから「主義主張は語らない」という抑制的態度は立派だし、科学者は自分を諌めることができなければならない。
ただし、原発事故も、コロナを政治主導の騒動にしかできない現在も、科学者だって無責任ではいられない。
科学は必ず結果に価値判断を伴う。
大事なので繰り返します、"結果に価値判断を伴う"。
「原爆を作ったのは私だが、使うかどうか決めるのは私ではない」という態度は、その態度自体が価値判断である。不作為という価値判断を作っている行為であって、責任転嫁したつもりになっているだけの言葉である。
これは実際には「自分を諌めることができない」からこそ出てくる態度である。
結果と価値判断は、切り離して考えたいと思うでしょう。自分が出した結果が、世の中を悪くしたら、それは自分のせいではない、と言いたいことでしょう。でも、科学というのは、そういう甘えを許しません。
もし「結果がもたらす未来」から逃れたければ、科学者にはその結果を公表しない自由裁量があります。公表しなくてもいい、結果を出さなくてもいい。それにもかかわらず「結果を出す」のだから、そこには"すでに"価値判断が伴っているのです。
エビデンスやEBPMの優位性を声高に述べることは「エビデンスに使われている」状態であって、決して抑制的に科学に向き合っているから出てくる言葉ではありません。
逆です。
「エビデンスやEBPM」という言葉を利用して、真っすぐ科学に向き合うことを棚上げしているのです。
これって、やってることは原爆と同じでしょう。
エビデンスは大事です。
本当に大事。
ただし「エビデンスにない、エビデンスを出せ、論文になってないからダメ」という、価値観を他人に押し付けるその態度は、科学者として失格だ、と言いたいのです。
そんな場合には「そのエビデンス、100年後も正しいと言える?」と聞いてみたい。
科学はすべて「現時点では正しいとされる仮説」です。その"仮説"を運用し、検証し、訂正するという前提を、認めない行為は、科学ですらない。
科学であり、科学者であり続けたければ「検証と訂正ができる余地を残しておく」という最低限のリスクヘッジを、自分たちの手で行わなければならないのです。
なぜならば、科学に完成なんてないからです。
ちなみに、公衆衛生も、科学ですからね。
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