日本の感染症対策の目標設定のやり方は、戦争と同じ目標設定のやり方に似ています。
戦争を始めてしまったから「勝つ」ことが目標。だから「勝つ」まで戦争が続く。戦争してるから平和がないのに、戦争をやめない。「戦果」だけ数えて、強調される。でも実際には勝てないから、被害が続く。被害は、見て見ぬふりをされる。終わり方が分からないから、いつまでも終われない・・・。
これ、目標が間違っている、と思いませんか?
2023年3月13日(マスクは個人の判断ですと宣言される日)や2023年5月8日(5類に以降される日)は、まるで終戦記念日として設定されるみたいです。5月8日以降は、それ以前の過剰なコロナ対応を、なかったことにするのでしょう。教科書に墨を塗るように。
そしてこれからは「コロナ報告書」が色々な機関で作成されることでしょう。でも「日本の対応は甘かった。もっと対策を講じるべきだった、もっと感染者数を抑えれば死者も抑えられた」という反省や「日本のコロナ対応は上手くいった、有機的に機能した。保健所が受診・入院調整に入って重要な役割を果たした」という評価は、大変むなしいと思っています。そもそもが戦争をしてはいけないのに、戦争に負けた後で「火力が足りなかった」とか、残った領土を見て「せめてこの土地が残ってよかった」と、反省することと同じ過ちだからです。
これでは「同じことを繰り返す」だから「過ち」なのです。保健所が重要な役割を担っていると言えば、関係機関は「自分たちの仕事じゃないもん」という顔ができます。他人事でいられます。だから、そうやって同じことを繰り返します。でも、感染症を抑えることや、検査することだけが、予防なワケじゃないのです。これだけが優先されるワケじゃないのです。
よく「感染しない・させないことが目標だ」と単純化して言いますが、これは唯一絶対な目標ではありません。「感染症に感染しないことが目標だ」と言うのは「虫が付かないように野菜を実験室で育てることが目標だ」と言っているようなものです。実際には「虫が付いても全滅しない野菜作り」があるように「感染症にへこたれない健康づくり」があるワケです。人間は、無菌状態で袋詰めして売られる野菜ではありません。
よく言う「健康」についても「健康=コロナに罹らないこと」とは定義されないでしょう?検査するからコロナだと判明するけれど、ほとんど軽症なのに「あなたはコロナです」と言われたその瞬間から「健康ではない」ことにされるのでしょうか。高血圧の指標だって、時代が変われば変わってしまうものです。それなのに「あなたは高血圧です」と言われたらその瞬間から、病人になるんですか?
「自分の健康くらい、自分で決めろ、馬鹿者よ」と思うわけです。
たとえば「検査をすれば感染が防げる」って、いまだに信憑性を疑われないようですが、私は「ハンマー&ダンス」「クラスター対策」というような概念の適応から疑って、やり直す必要があると思っています。なぜならば「ハンマー&ダンス」や「クラスター対策」を"ずっと続けた"せいで「トリアージ機能が崩壊した」からです。
何度も言いますが、目標が間違っています。
目標は「トリアージ機能の確保」です。
でも、日本の感染症対策のせいで「トリアージ機能」が破壊されたままです。現に「今後も重症者の入院調整は保健所に(やってもらう)」という声が、恥ずかしげもなく医療機関から出てきています。「入院調整を保健所にさせる」というのは修辞的な言い方で、実際には「うちでは診ませんよ」と言う医療機関による門前払いです。
そこで、「目標設定」「評価指標」「概念適応」について、日本は何をどう間違えてきたのかを、以下にまとめました。
<要旨:我々の失敗は大きく3つありました。>
1.目標設定の誤り
目標は「コロナを抑えること」ではなく「医療提供体制(トリアージ機能)の確保」が適切だった。
2.評価指標の誤り
評価は「感染者数・コロナ死者数」ではなく「医療提供体制(トリアージ機能)の維持」が適切だった。
3.概念適応の誤り
「ハンマー&ダンス」や「クラスター対策」という概念は、国内まん延フェーズ後のコロナに適応させてはいけなかった。一次~三次予防、特に一次予防(コロナに罹っても簡単には健康を損ねない身体でいること)に務めることが適切だった。
<説明1.目標設定の誤り>
日本の感染症対策は、2020年2月の最初から
「コロナの感染者数を抑えること・コロナの死者数を抑えること」を、なにより優先させてきました。優先させてきた、と言うのでは生ぬるく、これしか考えてこなかった、という方が正しいでしょう。国民の生活の目標すべてを「コロナの感染者数を抑えること・コロナの死者数を抑えること」に結び付けるように進めてきました。いまだに「コロナ死者数」が最も重要なアウトカムの指標として用いられています。
私は、この目標設定が間違っている、と思っています。
健康危機管理における最後の砦は、医療提供体制の確保、つまり、トリアージ機能の確保です。ウイルスがゼロにならない、まん延する、死者も出る、そのことを"前提"として、社会機能を維持させることが、重要だと思っています。
<説明2.評価指標の誤り>
感染者数がいくつまで抑えられたら良しとするのか、死者数がどの程度なら許容するのか、議論の上で決めた覚えがありません。「コロナ死者数を減らすことが目標」って、誰が決めたのか。なぜ「コロナ死者数」だけをアウトカムの指標にしているのか。
日本はいまだに、コロナ患者数と死亡者を数え続けています。これを続けて、たとえば医療機関や高齢者施設に検査を推進し続ければ「コロナ死者数」は今後も増え続けて当たり前です。「コロナ死者数を減らす」ことは絶対にできません、なぜならコロナ死者数は「増え続ける数字」だからです。そして「増え続ける数字」のために、医療機関や高齢者施設の「入り口」が閉ざされます。
ですから、この評価指標も間違っている、と思っています。
健康危機管理における最重要評価項目は、医療提供体制の維持、つまり、トリアージ機能の維持です。ですが、私たちが「コロナ患者数とコロナ死者数」を評価指標にしてきたことによって、コロナのみならずすべての疾患で、トリアージ機能が崩壊してきました。
<説明3.概念適応の誤り>
「ハンマー&ダンス」や「クラスター対策」の概念が、有効な感染症はたしかに存在するでしょう。ただそれは、closedな空間で、隔離が可能で、感染の足がそこまで早くない、というような適応条件があるはずです。サル山のような実験的で閉じた集団であれば、対策が計算通りに功を奏することが考えられます。
でもコロナはボーダーレスな感染症でした。感染宿主であるヒトは、実験的な空間で暮らしているのではなく、openな空間で生活していて、計算通りに動くアルゴリズムではありませんでした。そんな生身の集団であるヒトに対して、コロナに「ハンマー&ダンス」や「クラスター対策」の概念を当てはめ続けることは、果たして妥当だったのか。
私は、この概念の「適応」も、ずっと誤ってきた、と思っています。
コロナが始まって3年経ちますが、コロナ以外のすべてから「一次予防、二次予防、三次予防」という言葉が、取り組みが、すっかり、どこかに行ってしまいました。
通常「予防」はこんな分類をされます。
・一次予防:病気を予防する、生活習慣の改善、健康教育
・二次予防:早期発見/早期治療
・三次予防:罹患後の悪化予防、早期回復
ここで「とにかくコロナを抑える対策」に頼ったがために、その対策以外のことが消え去ったのです。でも本来は以下のような予防をしておきたかったと思っています。
・一次予防:コロナになっても簡単には死なない身体をつくる
・二次予防:自分で調子が悪いことに気付き、しっかり休む
・三次予防:次の感染に備え、予備力を高める
<今後の課題>
これらの反省を活かすのは「次のパンデミック」ではありません。
次のパンデミックを持ち出すまでもなく、災害と復興(南海トラフ)や2040年±10年の多死社会が、確実に訪れる未来です。現在の医療提供体制は、コロナで破壊されたまま、まったく準備できていない、と思っています。
医療提供体制を整備するために、全国で第8次医療計画策定に向けて「連携協議会」を作ることになりましたが、ただ単に連携協議会を作っても機能しません(誰もが診たくないと言って、コロナの二の舞になるから)。連携協議会を開く前に、そもそも国がどのような医療計画をデザインしていくかを、どれだけ示すことができるか、にかかっていますが、それも心配です。「看取り」も「災害時」も、受診・入院調整をやれる体制がなくて「保健所がやる」ようでは、失敗なのです。
災害と復興(南海トラフ)や2040年±10年の多死社会の「目標設定」を、コロナの二の舞にしたくない、と思っています。
災害時にコロナ対策みたいな目標設定でやってたら、死んじゃいますからね。
一番の問題は、これら3つの誤りを"大本営"の先生方に自覚してもらうことが、大変むずかしいという点です。
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