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2022年9月1日木曜日

反省すべきは"サービス提供の不足"ではない

これほど患者数が多くなってしまっては、どれほど税金を使っても配食サービスを用意することは事実上不可能である。地元の業者では対応できる数ではないし、配達してくれる宅配業者にも人的な限界がある。ところが「コロナ患者になったら、無料で食料を貰えるのが当然の権利だ」と思っている市民が多く、よく揉める。

「コロナ患者なのに、なぜ配食サービスを無料でもらえないんだ!」という声に対して、反省すべきは"サービス提供の不足"ではない。

コロナになった患者が、生活の危機に瀕して、なぜ食料の確保すら友達にもご近所にも頼れず、孤立した生活に陥ったままになってしまうのか、なぜそんな頼る先のない社会になったままなのか、なぜそんな町づくりを許してきてしまったのか、これが公衆衛生上の猛省点である。

悪いのは"配食サービスが足りないこと"ではない。"公助が足りないこと"でもない。逆だ。
自助が行き過ぎているから、すべて自己責任にされるから、すぐに行き詰まり、互助も共助もなく、いきなり公助を要求することになってしまう。配食サービスが使えなければすぐ生活が行き詰まるのは、公助が足りないのではなく、自助ばかり求められてきた"結果"である。
だから問題なのです。この状態では、金と能力がある人はまったく困らないけれど、真っ先に困るのは自助だけでは何ともならない人だから。

「公助を受ける権利がある!」と言って、"希望者"全員が配食サービスを受けようとすれば、文字通り公助は食い潰される。
繰り返すけど、元手は税金です、自分たちのお金です。だのにクレーマーと化して配食サービスを無料で得ても、それは"自助努力の結果"の域を出ていない。「言った者勝ち」の世界を自ら作ってしまっている。

「コロナに罹患したら食料確保が不能になる」ということは、ちょっとした災害でも、疾病でも、解雇でも、その他のトラブルでも、同じように食料確保が即日で不能になる、ということである。それほどまでに、ヒトの集団としての力が弱くなってしまった、ということである。リスクヘッジできなさ過ぎる、この状態そのものが、公衆衛生上の大問題なのです。

そして、互助が続けられるようにすることをこそ、本来は公助と呼ぶ。だってほら、「戦争しない状態を作ること」も、公衆衛生の、おおやけの、大事な役割でしょう?

「一人暮らしで、食料品なんて買いに行けない。頼める人なんているワケない」という声を聞くたびに、それがウソでも本当でも、この町に危機感が募る。

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