「濃厚接触者ではないという証明がほしい」とか「この感染対策でOKだという許可がほしい」とか「マスクの要否を決めてくれ」とか言われる。
でも、ちょっと待ってほしい。本来、そんなことは許可制ではない。
そもそも、マスクもワクチンも、厚労省や専門家が勝手に推奨・啓発しただけで、強制される規則ではない。「マスクをする・しない」も「ワクチンを打つ・打たない」も、自分で決めればいい話で、他人が決めるものではない。
自分で決めて良い話だ。
自分で選べばいい。
でも
自分で決められなくなってしまったのは、なぜだろう
自分で決められないのは、なぜだろう
厚労省による感染症対策の推奨や啓発は、厚労省の勝手な推奨や啓発なのだが、いつの間にか「守らなければいけない法律」のように扱われている
「屋内ではマスクをしましょう」が「マスクしなければならない」になり「ワクチン接種をオススメ」が「ワクチンは打たなければならない」に誤解されている
これが「コロナ騒動から撤退するとき」にも悪影響を発生させていて、厚労省が「もうやらなくていいよと許可するまでやめてはいけない」かのように扱われている
曰く
・「4回目のワクチンは『年齢+基礎疾患』がない人は不要」
・「登下校中はマスクしなくていい。屋外では2m離れていればマスクしなくていい」
このように厚労省が「許可」したら、ワクチンをやめられる、マスクをやめられる、と「誤解」されている
一般市民からは「どれくらいの感染対策で済ませればいいのかお墨付きが欲しい」「"濃厚接触者ではない"と保健所が言ってほしい」「言われた通りにするから、何かあったら厚労省や保健所が責任をとってほしい」と言われる。
これでは、ダメです。厚労省も、一般市民も、どちらもダメ。
一般市民が「許可制」のように誤解してしまった責任は、闇雲に感染症対策のオススメをしてきた側にある。
一方で「厚労省や保健所からカタチだけでも"許可"がもらえないと、やめるにやめられない」と考えてしまう一般市民は、責任回避、主体性の欠如、対岸の火事、付和雷同が好き、と色々と言葉が思いつく。
でも一番の問題点は「じゃあ、国が死ねって言ったら死ぬんですか」という質問に集約される。国が「ワクチンを打て」って言ったら、それで死ぬかもしれなくても打つんですか。国が「マスクしろ」って言ったら、熱中症で死ぬかもしれなくてもマスク続けるんですか。あなたは一体、誰なのですか、と。
こんな状態になったのは専門家に責任がある、と思っているし、専門家の言うことを鵜呑みにしてきた人々にも、責任がある、と思っている。保健所も、厚労省が言うことを基に対応し、情報を垂れ流してきた(抵抗はしてきたけれど)。
そして、この「自分で決められない状況」を作り上げてしまったことが、公衆衛生的に危機的だ、と思っている。
危機的ですよ、本当に。
人々は、死ぬかもしれない状況になっても、逃げるよりも先に、誰かに許可を求めようとするのですから。
さて、マスクを例に、今後のことを考える。
「"マスク不要"にするかどうかは、本来、許可制ではない」と分かっているが、許可制であるかのように扱わないと、人々が自律的に動けない状況を鑑みて、日本の専門家には3つの道が残されている。
1.「マスクは外してもOKだ」という"ウソの許可制"を継続する
2.「マスクは本来、個人の自由ですよ」と人々に真実を伝え、人々の成長を促す
3.何もしない
私は「1→2」が、もっとも被害を少なくできる、と考えている。一足飛びに「2」はムリだから、仕方なく「1」から始めて「マスクなんて不要です!」と言わないと、マスクを外すことができないからだ。部分的に「〇〇のときはマスクしなくていい」と言っても、人々は部分的にすら外すことができないほど、もう自律的に動けなくなってしまっている。
一方で、専門家は「1+3+3」で「部分的にしかマスク不要の許可を出さない」ことを続けると予想している。「マスクにより発生する被害」よりも「マスクを外させたあとで感染が増えたときの対応が思いつかない」から。専門家は「何もしなくていい」と腹を括ることができないから。
公衆衛生は、コロナ騒動で「公衆衛生の役割」をずっと果たせていない。
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