私には「目玉焼き理論」のほうが「全体の感染様式」をうまく説明していると思えてならないが、一部には「クラスターという感染様式がある」という「仮説」は、それはそれで、あっても良い。あっても良い、のであって、それがすべて、ではない。
本来「クラスター」という言葉と「対策」という言葉は、別々の言葉で、別々の意味をもつ言葉である。ただ、残念なことに「対策」が、その「クラスター」という現象に、引っ張られすぎている。「クラスターありきの対策」になってしまっている。
いま、感染者がまた増えてきたので、まだ同じことを繰り返すであろう「クラスター対策」に関して、復習(復讐)しておきたい。
保健所は、クラスター対策を決して「誤解」などしていない、最初から。
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<クラスター対策とは何か>
・「クラスター潰し」ではない。
そうです。
コロナは、感染者を潰そうとしても、初発患者が分かった頃には拡がり終わっているので、感染者を潰すことは不可能です。
日本がやったのは「クラスター潰し」ではなく「クラスターが出た店潰し」でした。
「クラスター対策」のせいで「店が潰れた」のです。
・「後ろ向き調査」だけではない。
そうなんです。
「後ろ向き調査」で感染源を特定しようにも、ターンオーバーが早すぎて、特定できませんでした。そうこうしているうちに、濃厚接触者から次々と陽性者が出るので「後ろ向き調査」なんて片手間にやってるだけです。「前向き調査」なんてしなくても、向こうから電話がいっぱい来て、てんてこ舞いです。
いくら調査や検査をしても、対策にはまったく無力でした。
・「クラスターが追えなくなったら終わり」ではない。
そのとおりです。
「積極的疫学調査」によって痛くもない腹を探ったばかりに「濃厚接触者だらけ」になりました。「終わり」どころか「いつまでも終われない」状態になりました。
スーパースプレッダーなんて言うけど、スーパースプレッダーが10人も20人もいた日には、そんなものは茶飯事でしょうが。特定する意味がない。スーパースプレッダーなんて言うから、対策を誤解する。
山火事と同じで、燃える木があれば燃えるし、燃え尽きたら止まる。
燃えるかどうかは、周囲の木の密度と、距離、風向き、水(雨)で決まる。
あとは「消す価値があるかどうか」である。
コロナも同じ。家族が多ければ濃厚接触者も必然的に増えるのだ。
そもそも全員がクラスターなんだし。
そういう意味で、日本はまだ、燃えるはずの木は燃えていない。
だって人口の1%も感染していないのだから。
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以下は、過去に書いたことに大幅に加筆して私見を述べる。
対策として「場」や「人」をしぼりこみ、共通点を探し、「場」や「人」で「くくる」ことが有効な感染症は、たしかに存在する。
代表的な感染症は、結核や髄膜炎菌やHIVである。
検査や調査をする時間的余裕があり、有効な治療薬があり、場や人が特定できれば絞り込むことができ、現実的な予防方法も存在する感染症である。
だから、このような感染症に対しては、保健所が調査や対策に乗り出す。
しかし、コロナは、ぜんぜん違う(押谷風)。
1.ターンオーバーが早すぎて(発症したと思ったらすでに多くの人に感染し終わっていて)
2.潜伏期間がバラバラで(1日の人もいれば14日以上の人もいて)
3.症状の有無もバラバラで(無症状の人もいれば、症状があっても自覚しにくい人、そこそこ咳が続く人、重症の人)
4.感染様式は何でもありで(空気感染もエアロゾルも飛沫も接触も)
5.ゆえにどんな防御策をもすり抜けるような感染症を(それが生活ってもんです。実験室じゃないんです。家庭で感染が拡がるなんて当たり前で、仕方がないでしょーが)
6.1つの「場」や「人」でくくって調査・注意しようとする発想にこそ、無理がある。
サイトメガロウイルスやRSウイルスだって、立派に人を殺す。
しかも高齢者ばかり死ぬコロナとは逆で、小児が死ぬ。
どこから感染したかも分からず、臨床的には不明なことばかりになっても、調査は無意味だと分かっているので調査しない。
それぞれのウイルスに注意喚起の方法は存在する、それくらが"関の山"である。
さて、コロナである。
マスクは、マスクをする価値があるかどうか、で決まる。
無症状の人からも感染する、それはそうだ。
おしゃべりで飛沫が飛ぶ、それはそうだ。
・では、いま、1000人の集団の中に、感染力のある人は、いったい何人いるか?
(答:1人いるかどうか。注意:分母は人口、分子は過去の全陽性者数ではなく、現在、感染力があって感染させる状態にある人数)
・その集団の中に、感染力のある人が1人いたとして、何人に感染させるか?
(答:実効再生産数または基本再生産数、どちらでも。まちがっても1000人に感染させる、なんて考えないように。物理的に不可能ですから。)
・そんな中で、1000人が、常時、マスクする価値があるか?それは現実的か?
(答:ゴールの設定次第。個人的には咳エチケットで充分だと思っている。)
ちなみに、スペイン風邪のときマスクしてた写真が残っているけれど、流行の抑制には効果なかったとされています。
ここで気がつく。
「ゴールの設定」を、どうやって、いつ、誰が決めるのか、を、議論していないことである。
「実効再生産数<1」を目指し、「コロナを終息させること」が、いつの間にかゴールとして設定されて、そのまま見直されることなく放置されている。
机上で決められたゴール設定のままである。
すべて「実効再生産数<1」のために「検査、隔離、濃厚接触者の洗い出し、マスク、自粛」が「いいこと」だとされてしまった。
コロナが「実効再生産数<1」を達成できる感染症だと決められて、これを達成するための犠牲を見積もられないまま来てしまった。
「三密回避」や「新しい生活様式を」という呼びかけは
「エビデンスがない中でも出した良いメッセージだった」のではない。
逆だ。
「専門家としてのリスクヘッジを放棄した、ただのプロパガンダ活動だった」と評価している。
非科学的な表現に胡坐をかいて、ボクの考える最強コロナ対策を披露すべく、合意形成をすっとばして暴走しただけ。
繰り返す。
合意形成をすっとばして、暴走した。
それをいまも続けている。
大本営と同じだな。
「5類感染症でいい」と保健所はずっと前から言っているけれど、専門家からは「なに保健所はラクしようと思ってんの?」と言われる。これは頓珍漢な言いがかりで、ラクしたくて5類にしろって言ってるんじゃない。
5類にしなきゃ、ますます地域の医療は守れないし、将来の子どもらも守れない、だから言っている。コロナで高齢者が死ぬよりも、コロナ関連死で若者が死ぬ方が、公衆衛生的にアウトなまでに拡がっているから、言っている。コロナの重症例を救いたくても「指定」のために患者の引き受け先がないから重症ベッドが空かない、トリアージができないから言っている。
べつに「5類感染症」は「ラクな感染症」っていう分類じゃないんよ。社会資源の分配と感染症の特徴とを合わせて考えたときに、もっとも適当な分類が「5類」だと言っているだけです。
押谷先生が当初言っていた「クラスター発見をする感染対策モデル」は「前提としてどの感染症に当てはめていいのかを検討しなかったこと」が失敗だったと思っている。
つまり、前提から間違っていた、と私は評価している。
このモデルや対策をコロナというcommon diseaseに使ったのが間違いだった。
サイトメガロウイルスやRSウイルスのように、どこが「関の山」かを、見極めなかった。
コロナ対策での失敗の1つは、確かにリスクマネジメントができなかったことだが、特に「"科学者が無謬性を疑わない姿勢で対策する"ことのリスクマネジメントができなかったこと」だと痛感している。噛み砕いて言えば「感染防止しか言わない科学者に、ブレーキを掛けられなかった」ことである。
何度でも言う。
何が「最悪のシナリオ」なのか、は立場によって変わる。
理論疫学が想定している「最悪のシナリオ(感染爆発)」は、決して普遍的に適応させていいものではない。それらがシナリオのすべてではないし、感染者数や死亡者数の名目値だけがシナリオでもない。サイトメガロウイルスなんて感染爆発しとるやんけ。
コロナも感染者が爆発的に増えることを「最悪のシナリオ」にする人は"そういう立場"だが、名目値が何であれ、リスクコミュニケーションをないがしろにして医療提供体制を維持できなくなることも「最悪のシナリオ」である
我々の立場からすれば
なんなら、いまが「最悪のシナリオ」の通りになっている。
結論が近い。
「誰が死ぬのか」は、もうはっきりしている。
「いつ死ぬのか」も、およそ分かっている。
議論が必要とよく言うが、ぜんぜん議論していない、専門家が避けてきた話がある(ズルいことに)。
「いま死ぬか、明日死ぬか、それとも半年後死ぬか」
「コロナで死ぬか、誤嚥性肺炎で死ぬか、老衰で死ぬか」
「死者の分母は変わらない中で、何を許容し、何を防ぎたいのか」
「なにを犠牲にして、なにを得て、なにをあきらめるのか」
2021年4月の現時点で、人口の1%も感染していない日本は、これで感染が治まるとでも思っているの?
これまでの1%以下の感染も抑えられないのに、これからの99%以上の感染を抑えられると思う?(全員が感染するワケじゃないけどね)
たとえコロナワクチンが効いたとしても、これまでの1%以下の感染も抑えられたと思う?
99%は「これから感染する」んやで(全員が感染するワケじゃないけどね)。
コロナワクチンはそこまでの効果はないんやで(どんなにワクチンを打ったって、現時点までの感染者と比較して感染者は必ず増える、という意味)。
受容するしかない。
高齢者が誤嚥性肺炎や老衰で死ぬことを受容するように
ある程度の高齢者がコロナで死ぬことも受容するしかない。
マスクしたって、検査したって、ワクチン打ったって、避けて通れない。
一定数の高齢者は、コロナで死ぬ。
高齢者を見殺しにするのか!って言われそうだけど、ちがいます。
あまたある疾患の1つにコロナがあって、コロナでも死ぬ高齢者が出てくる、という意味です。
「高齢者の全員がコロナで死ぬけど仕方がないよね」って言ってるんじゃないです。
「一定数の高齢者はコロナで死ぬけど、受容するのか抗戦するのか、きちんと議論の俎上に載せてましょう」と言っている。
そして、それは、いまさら厭と言っても、ある程度は受容するしかない、と言っている。
高齢者を感染対策できない施設に集める社会を作っておいて、高齢者をコロナから護りたい、なんて、虫が良すぎる、と言っている。
65歳以上の超過死亡の有無を見ましょう。
その超過死亡は一瞬のものか、コロナでなくても死ぬ数なのか、考えましょう。
年単位で分母は変わるのか否かを考えましょう。
65歳未満のコロナによる超過死亡も計算しましょう(ないけど)。
そして、冷静に、論理的に、将来を天秤にかけましょう。
「コロナによる高齢者の死」と「コロナ対策による社会の死・若者の死」を
「避けられないもの」と「避けられるもの」を
天秤にかけましょう。
ここらが"関の山"です。
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