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2020年9月8日火曜日

「意見を表明しない」という意見

 意見を表明しないのなら、いないのと同じです。
「意見はない、どうなっても良い」という人が、仕事をすると、どうなるでしょうか。

イエスマンになります。

たとえば
「鑑別診断を挙げない医者、アセスメントを書かない読影レポート」という例があります。
「ガイドライン通りにしかやらない人」というのも考えられます。そのガイドラインがどんな背景で作られたものか分かったものではなく、ガイドラインに責任を押し付けることはできないにもかかわらず、です。
「意見を言わない御用聞きメディア」も同じです。

ですから「意見がない」という態度は、それ自体が「そういう意見」なのです。どんな事態になっても構わない、そんな仕事で構わない、という意志表明です。

これが公衆衛生に従事する場合、どんなに恥ずかしいことか。
なぜならば
そのような人がやっているのは、単純繰り返し作業化した仕事のみだからです。
そのような人がやっている対策は、小手先の、その場しのぎ仕事のみだからです。
しかし本当に求められている仕事は「単純繰り返し作業」ではないのです。

だから、そんな人は、公衆衛生に手を出してはいけません。
「仕事ができるようになった」のは「その場しのぎができるようになっただけ」だからです。それは「トラブルシューティングは誰に電話すればいいのか、相談は誰に、報告は誰に、連絡は誰に、この相談はどんな手順で、誰に"決めてもらう"のか」という類の仕事のことです。

そう。
こういうことは、意見がなくてもできます。もっと言うと、イエスマンであればあるほど、処理は早くなります。ただしこうなると「No」と言えなくなります、リスクヘッジできなくなります。

処理が早いことを"仕事ができる"と勘違いするのは自由です。しかし、決して公衆衛生ができるようになったのではありません。
それはアマチュアの域を出ていないからです。だから、そんな人が、公衆衛生に手を出してはいけません。
最後は逃げ出すことになるからです。

言った意見に責任を持つよりも、言わないでおくことで責任を背負わないようにする、という態度は、公害が起こりそうでも、人権侵害を目の当たりにしても、行動を起こせない自分を作ってしまいます。

公衆衛生には「これしか方法がない」なんてことは稀です。
公衆衛生は柔軟に考えましょう。

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