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2020年9月17日木曜日

「社会の厳しさ」という日本語

 「社会の厳しさを知った」という日本語は、誤った日本語だと思います。

この日本語は「社会というのは『厳しい』のがデフォルトで、手を差し伸べたり助け合ったりというのは特別なこと」と言っています。
この日本語は、まるで体罰を正当化するように、厳しさを正当化しています。

「厳しさ」という言葉には、「社会」の側に
・どうだ、社会ってのは厳しいもんなんだぞ、まいったか
・社会で役立たないのはオマエが弱いからだ、強くなれ
・厳しい社会の波にもまれてこそ一人前だ
というマッチョとも、押し付けとも、自己都合ともとれる思想を、内包していると思います

これは、ただ厳しさを擁護しているだけです。
しかし「厳しいことは正しい」というワケではありません。
大事なことなので繰り返します、「厳しい=正しい」ワケではありません。

この日本語は、正しくは「社会の冷徹さを知った」と言うのが良いと思います。

さらに付け加えます。
「そんな冷徹な社会に、付き合う必要はない」ということです。

厳しい社会でやっていける者しか社会の一員として成熟した者とはみなさない、というような「お友達」社会は、そういうガツガツした「お友達」同士でやっていただいて、強いて仲間に入れてもらう必要はないよ、ということです。

そんな社会は、正しいワケではありません。
そんな冷徹な社会に、自分を投げなくてもいいのです。
そんな社会に、自分を合わせる必要はありません。
そんな厳しくて冷徹な社会は、いずれ滅亡します。

滅亡します。

なぜならば、そんな社会の構成員は、必ず減る一方だからです。

そんな社会に、付き合う必要はありません。

社会は1つではありません。
社会の中で、手を差し伸べたり、助け合ったりというのは「特別なこと」ではありません。空気のように、あって当たり前のこと、です。
「厳しい」をデフォルトにしている社会ではなく、厳しさとは無縁の、のびのびとした社会だってあります。
自分がそのように振る舞えばいいのです。
自分ができることは自分がやればいいし、できないことは助けてもらえばいい。

「一生懸命に頑張ること」が価値観のすべてではないし、「厳しくて冷徹な社会に耐え」なければ生きていけない、なんてことはないのです。

構成員が減る一方の冷徹な社会に身を置いて、自分をも滅亡させてしまうくらいなら、「そんな社会」とは縁を切ってしまいましょう。

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