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2020年5月16日土曜日

「次はどうするか」を他人任せにしないために:「休校」や「stay home」を例に

もうすっかり忘れられてしまったが、愛知県では4月7日に公立小中学校等に休校延長の指示が出た。

それから約1.5ヶ月が経過している。

「 いつになったら休校が決定されるのか、本当に入学式をやるのか、始業式はどうするんだ。愛知県知事は何をしている。こんな状況で学校をやるなんて。」

様々な言葉が語られた。

そして当時は「ようやく休校の指示を知事が出してくれた」と言祝ぐ声が聞かれたが、そんなことも忘れられてしまったようなので、今のうちに私が覚えた違和感を記しておきたい。

当時、学校の再開について、どうすることがベストなのか、私は判断がつきかねていた。現行の強固な感染防止策を継続しつつ、もし学校で感染が確認されたら、パニック必至である。そんなパニック必至の事後処理はムリ。オリンピックの聖火リレーが中止になってくれてよかった、と思う気持ちと同じであった。
一方で、学校が再開されることは、簡単に言えば子どもたちを預かってくれるので、医療従事者にとっても行政職員にとっても「大変助かる」のである。虐待の見守りにもなるしね。
どちらの気持ちも、前向きな考えから発したものではない。そもそもがこの状況を人災だと思っているので、どちらを選択するにしても、難儀なことだと思っていた(人災というのは、べつにウイルスが人工的に作られたものだとか、陰謀だとか、そういうトンデモ話を言いたいのではない。インパール的な意味での人災である)。
だので、休校中の状態は、決して言祝ぐようなものではなく、難儀なことに変わりはない。「休校しているから学校で感染しなくてラッキー」というほど簡単には喜んでいないのです。同じように、たとえ学校が再開されたとしても、「やっと始まった、よかったー」とも思えないのです。

さて、私が覚えた違和感である。
私は「こんな状況で学校をやるなんて、知事は何をしている」という言葉に違和感を覚え、もしこれから「やっと再開してくれた」と同じ口から聞こうものなら、再び違和感を覚えるだろう。

結論を言うと「指示待ちである」ことを指摘せざるをえないのである。「自分で考えることを放棄している」ことに違和感を覚えているのです。「人の顔色を見たり前例を見るのではなくて、自分で決めようよ」とツッコミたいわけです。

まず、義務教育の「義務」は、国家に課されている。だから法律ではなく、わざわざ"憲法"で"保障"している。無償とするのも、だから国家である。次いで、子女を保護する国民にも課されている(この順番を間違えないように)。「義務教育の義務を国民に課すので、バーター取引で国家が無償提供する」のではない。もし国家に教育の義務がなかったのならば、国公立なんて存在しなかったですよね、バーター取引にする必要性すらないものです。
また「義務教育≠学校」でもある。憲法の「義務教育」は、そういうスタイルや概念の話であって、実態は何か、場所はどこか、という話ではない。”義務教育”という概念を実践するために、たまたま現在は”学校”を使っている、ということです。
It's not a place, but a concept.

さて、 「ようやく休校の指示を知事が出してくれた」というのは、「休校を指示してくれないと休めない」という理解からくるが、これは、誤りである。理由は上記の通りで、義務はまず国家に課されるものであり、かつ、実態や場所が既存の学校であるのは、たまたまだから、です。だから、国民の判断で勝手に休めば良い。なにも国家の指示を待つ「義務」などない。
「休めば良いと言ったって、休めないでしょう」と思うのならば、問いたい。「知事が言ったとおりにしか行動してはいけない」という義務がありますか。
ないですよ、ね。軍隊でもあるまいし…。

それでも休校を指示しろ、というのなら、それは、国家の義務を停止しろ、と言うに等しい。これは、国民が、国家にむかって「国家の義務を果たさなくていい」と言うものであった。私は、この行為は「国民が、国家に義務を果たさなくていいという免罪符を与える、危険な行為であった」と評価している。
いま、にわかにオンライン学習が注目され、導入されつつある。これは、義務教育の手段の1つではあるが、手段の1つであって、たとえばネットでの学習をすべてとして、これで義務教育を果たしたことにされても、困るのである。困るのであるが、国家に免罪符を与えてしまったばかりに、国家が「提供してきた義務教育の非代替性・可能性」について、考えを浅くしてしまう結果を招いたとしたら、「休校を指示しろ」という主張は、やはり危険な行為であったと言わざるを得ない。
教育の効果は、本来は査定不能であるし、結果は未知である。そういう余白がある、それが教育というものである。しかし、「オンライン学習でもやっとけばいいや」と考えてしまったとしたら、査定可能な教育のみ、効果が推定可能な範囲でのみに、教育を狭めることになる。国家が果たすべき義務が軽くなったワケではないのに。

また、「早く上の人が決めてくれないと動けない」という声も聞かれたが、私から見れば、「そんなに上の人を信用していること」が、危ない。そんなに国家に縛られているのですか。その結果、生き延びることができない結果になりうる、それが戦争ですよ、と言いたい。
地震がくる、津波がくる、コロナがある、そんなときに自分がどう行動したらいいのかを、上の人が決めてくれるまで待っている。いつまで?
国家にしても、他人にしても、だれも自分自身のことについて決定を肩代わりしてくれる人などおりません。

「日本は同調圧力が強い」と言うが、4月7日の休校延長指示に関する出来事では「同調圧力を欲している」ように見えた。信号を一緒に渡ってくれる「みんな」を探しているように見えた。

だから「ようやく学校を再開してくれる!よかった」というのは、空気である。一方で、もし今後、学校再開したあとで生徒児童から感染者が発生したときには、「なんで再開したんだ、コロナ患者はゼロになってなかったじゃないか、どうしてくれるんだ!」という言葉が必ず出てくる。
私は、これを「自分で考えることを放棄している」と評価する。結局、「指示待ち」の態度で、自立とは程遠い、と思っている。
私はこれを「悪い」と思っているのではない。「もったいない」と思っていて、「生き延びる可能性が下がる」、もっと言うと「死ぬよ?」と思っている。だから指摘している。


もう1つ例を挙げる。
「stay home」についてである。

最初は「人との接触を8割減らす」だったのに
いつのまにか「外出自粛」になり
さらに、口当たりの良い「stay home」という言葉になってしまった。
えーっと、これって、おかしくね?

ざっと言葉の出自を振り返りたい。
「人との接触を8割減らす」と西浦教授が言ったのは3月上旬だが、ニュースで大きく取り上げられたのは4/6-7あたりで、緊急事態宣言よりわずかに前だった(半日くらい前)。4/7に緊急事態宣言が出て「外出自粛要請」になり、4/10に東京都知事が会見で「stay home」と言い出した。東京都知事がstay homeと英語を言い出したのは唐突であったが、これは他国での「stay home」運動を受けての言葉選びであったと記憶している。有名人が自宅ライブやったりして(なんだったんだアレは)。

行政的には、3つの言葉は、「人との接触8割減」と、「外出自粛・stay home」の2つに分類される。つまり「人との接触8割減」は専門家会議から出された案であって法律に基づいていないが、「外出自粛・stay home」は法律のある緊急事態宣言に基づく言葉である。したがって、行政的には、3つの言葉を混同されても困る、「8割減なんて、言ってない」という話ではある。ただ、実際に行政も8割減を受けて行動していて、決して無視していたのではないので、法律に基づくか否かという話題は置いておく。

問題は、言葉が社会的にどう認知され、どういう行動が惹起されたか、ということである。

外出自粛の「外出」が極端に理解された結果、「一歩も外に出るな」的な監視行動はなかったか。サーフィンで感染する証拠でも確認したのか。パチンコを責めて満員電車が許されるのはなぜか。プロレス観戦をののしって、県外ナンバーを叩き、外食店の閉店時間まで監視するのはなぜだったのか。「理屈じゃないんだ、みんなこんなに我慢しているのに、不謹慎だろう?」という反応はなかったか。そして「マスクしてない人叩き」まで始まってしまったきっかけは何なのか。

西浦教授はインタビューで「自粛というのは、接触を削減してもらうことだというのが、正確に伝わらないといけません。」と答えている。
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/covid-19-nishiura
しかし、「stay home」から惹起された一連の反応は、もはや「自粛要請」というレベルではない。自分の物差しを勝手に他人に押し付けた「社会的制裁」である。本来、社会は制裁を加えてはならない。制裁は法律にのみ可能であって、社会に制裁させないために法律で制裁する体制がある、だから法治国家なのです。社会的制裁を許容する社会は法治国家とは呼びません。

「『stay home』のおかげで感染が減ったじゃないか」という反応は、腐ったリンゴの腐ってなさそうな部分だけを見て述べるに等しい。
「平時ではなく戦時だ」も同様で、戦時という言葉で思考停止を招いている。そんなところもコロナ禍が人災たる所以ですね。

接触8割減だろうが外出自粛だろうが、外に出るな、と言っているのではないので、「公園に出ることも散歩に出ることも自粛」だと理解してしまうと、あらぬ諍いを生じさせる。買い物はよくて、サーフィンやパチンコはダメ、などということは、本来誰にも決められることではない。つまり、外出する人を監視する必要はなかったし、外出すること自体に負い目を感じる必要はなかった。スマホの位置情報と感染性との相関なんて、いまは誰にも分かりはしない。

それでも、感染を防ぐために良さそうな行動を、真偽はさておき「正しい行動」だと信じたのではないか。自分が外出自粛をしている間に、他人の外出を責める感情が生じて、無自覚のうちに傷つけあってしまったことはなかったか。

繰り返すが、私は、これを「自分で考えることを放棄している」と評価する。結局、「指示待ち」の態度で、自立とは程遠い、と思っている。
そしてまた繰り返すが、私はこれを「悪い」と思っているのではない。他人任せにしては「もったいない」と思っていて、「生き延びる可能性が下がる」と思っている。なぜ生き延びる可能性が下がるのかは、すでに述べたつもりです。
 学校や外出自粛はただの例であって、すべてにおいて言えることです。

では、どうすればいいか。
他人任せにしないこと。
自分で考えること。
自分で決めること。
また、他人の都合に対して、自分の都合でとやかく言わないこと。

第2波、新しい生活様式、コロナと共生、いろいろな新用語が出てきている。
「次はどうするか」の「次」とは、そんなにバラ色の世界ではない。
むしろディストピアが加速すると思っている。
多様性はますます失われるでしょう。

それでも生き延びるには、「次はどうするか」を他人任せにしないことだと思っています。
そのように考えることで、リスクヘッジしたいと思っています。

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