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2019年12月5日木曜日

「活躍する」とは

自然界では、「ただそこにいること」が「既に活躍している状態」と言える。
人間界も自然界の一部なので、動物としては「ただそこにいること」以外は、何も、誰からも、求められることはない。生きていれば自然界で代謝が生まれるし、死んだあとも微生物の代謝が生まれて分解され、肥料になる。
だから「ただそこにいること」は、死んだあとまでも含めて「既に活躍している状態」である。

それなのに、「社会」という虚構の中では、「活躍」をどのように定義しても、それは社会の都合で決められてしまう。
これが、危ない。

注意して、しすぎることがない程に、危ない。

第二次世界大戦中、「活躍する」とは、端的に敵国人を殺すことであったが、そのような国で「戦争反対」などと市民が言おうものなら、「活躍しない者」として途端に市民に対して銃口が向けられた。同じことは枚挙に暇がなく、いま香港警察が自国民に銃口を向けているのは、そのうちの1つ。
「銃口」とは言わないまでも、「死ぬなら一人で死ね」とか「透析患者は死ね」とか「生活保護はタダ飯喰らいでけしからんから死ね」というバッシングも、「活躍しない者」と社会の都合が勝手に決めた末路の変化形である。

ゆえに、「活躍とは○○である」という定義は、難しい。この定義には、危険がつきまとう。難しく危険なのは何故かというと、「社会の都合で勝手に決める定義だから」である。「活躍する」とは、時代によって、定義が変わってしまうのである。

このように難しく危険だが、それでも無理を押して定義するならば、
活躍とは、「ただそこにいることを、否定されず、邪魔されない。」こと
活躍とは、「ただそこにいることを、否定せず、邪魔をしない。」こと
これが一つ。

また、「活躍とは○○である」と定義することは困難だが、「活躍とは○○ではない」とは言える。これは、いくつか言えることがあろう。

活躍とは、労働者であること、ではない。
活躍とは、経済活動を行うこと、ではない。
活躍とは、経済的に評価できること、ではない。
活躍とは、経済的利益を上げること、ではない。
活躍とは、経済的利益を上げることを目指すこと、ではない。
活躍とは、活躍することを強いられること、ではない。
活躍とは、誰かの役に立つこと、ではない。

勘違いしないために補足する。
経済的利益を上げることはダメではないし、目指すことがダメではない。
そうではなくて、経済的利益を上げることをもって、活躍している、とは言わない、という意味である。ダメではないのであって、やりたい人は好きにしてください、ただし活躍しているとは言いません、経済的利益を上げたからといって偉くもなんともありません、という話である。経済的利益が上がらなくても、活躍している現象は、いくらでもある。

上記と同じく、
誰かの役に立つことは、ダメではない。誰かの役に立ちたいのなら、どうぞ好きにしてください。ただ、誰かの役に立つことをもって、活躍している、とは言わない。
だから「誰かの役に立つこと」を強いられることはない。

そもそも、経済的利益が上がることや、誰かの役に立つことで、活躍することを定義することは、不可能である。
利益が上がるか否か、役に立つか立たないか、という二元論は、「社会の都合で勝手に決める評価」だからである。
再現性がない、と言ってもいいし、仮説でしかない、と言ってもいい。
このような二元論は、「時代によって、定義が変わってしまう」のである。

繰り返します。
活躍とは、「ただそこにいることを、否定されず、邪魔されない。」こと
活躍とは、「ただそこにいることを、否定せず、邪魔をしない。」こと

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