「月間公衆衛生情報」という雑誌の2018年10月号「第73回 期待の若手シリーズ-私にも言わせて!」という場所に寄稿しました。読まれることの少ない媒体と思いますので、ここにも再録します。リンクは以下です。
http://www.phcd.jp/02/j_koushueisei/pdf/watashi_201810.pdf
表題:目的はヒトを集団ごと守ること 役割はリスクヘッジ
リード文:行政で働いて何ができるだろう、もし保健所なら県型と市型とでは何がどう違うのだろう。調べても皆目見当がつかず、学生のころ面識のあった保健所長さんがいたと思い出し、雲を掴つかむような気持ちで電話してみました。話を伺うだけのつもりでしたが「一緒に働こう」と誘っていただき、ご縁で今に至ります。
本文ここから。
医師確保とコストの考え方
まず保健所に医師が集まらない原因の一つを指摘しておきたいと思います。身もふたもない話ですが給与です。行政組織によって給与に差が出るときは、医療職俸給表を使っていない、初任給調整手当の支給がない等が原因です。
人事課によくある考え方は、近隣との比較や、前職のバイトや当直分を引いた額との比較、というものです。残念なことに、これでは職員を雇う熱意はないと判断されます。比較には意味も根拠もないからです。またバイトや当直がないのではなく、バイトや当直ができない環境にして雇い上げる(それほどに定常的、かついざという時も動ける状況を求める)のです。この認識の溝がなかなか埋まりません。
次に、よくある言い訳です。
① 予算を立てていない:これは最初から分かっていることで、採用を真剣に検討していないことを意味します。
② 今の上司では理解されない:個人としての意見ではなく、組織としてどうするかが求められるのですから、上司が代わるごとに雇用条件が変わるのでは上司失格です。
③ 医師だけが高いなんてけしからん:その通りです。医師だけではなく、他職員にとっても十分な給与体制はインセンティブでありモチベーションです。
給与比較の恐ろしさは、低い水準に合わせて、競うように同一労働同一「低」賃金になっていく点です。この理屈を一人に適応すれば、まもなく全職員に適応できます。失われるものの大きさを思うと、私は同一労働同一低賃金に反対します。
保健所長の確保が困難なので保健所の数を減らして対応する、という地域が出てきています。本来は、保健所長を確保することが問題の解決方法であって、確保できるだけの努力をしたかどうかが問われます。「二次医療圏に一つの保健所設置」はあくまで目安で、公衆衛生上は保健所数も保健所職員数も少し多めで丁度いいのです。片や目先のコストカットを最優先に考えた場合は、これほどおいしい話はありません。保健所の数をコスト優先で減らすことができれば、同じくコスト優先で行政も医療も何もかも減らす話に行き着くからです。そして行政も医療も独立採算制を問われると、もうかる分だけを維持して残りは無駄だと考えます。これが選択と集中という博打です。
コストの受益者は誰か
なぜ恥を忍んでカネの話などを持ち出したのかというと、受益者は誰なのかを再確認しつつ、いま一度、公衆衛生に臨む組織の姿勢を確認したいからです。
十分な給与体制の受益者は、雇われた個人ではありません。長期的な責務を果たす役割に対して作る給与体制なので、個人や職種が独占するものではなく、支給することで受益するのはその組織です。
例えば市の場合は、市が受益者であり、もってどれだけ市民にお金をかけるか、という話です。故に十分な給与をもらったとしても、個人が立派で偉いからではありません。ちなみに職種や肩書きは、人間性の価値を決めるものではなく、すべて一時的な借り物です。特に行政や医療等の公的な仕事は、首相からバイトに至るまで、代理に執行する権限を付与させられているだけで、職種や肩書は「役割の違い」のみを示しています。これらは勘違いされがちです。
職員を研修に派遣する受益者も同様です。研修派遣の受益者は、職員個人ではなく組織であり、住民です(復命書があるのは職員が受益者ではないからです)。つまりどれだけ住民の人材育成にお金をかけるか、という話で、職員に研修の機会を与えないことは、その不作為自体が社会的損失です。
公衆衛生に臨む組織の姿勢
ここまでお金や受益者という言葉を使ってきましたが、公衆衛生に臨む組織の姿勢の問題は、お金でも受益の有無でもありません。問題は(これがすべてではないですが)、お金の問題に向き合う姿勢そのものであり、誰のための何のための組織かと考える姿勢そのものです。20時までの残業はつけないとか、最低限の資格研修だけ行かせる、などと考える姿勢では、人が集まらず辞めていくのは当然で、その姿勢は組織と住民にとって勿体ないものです。札束だけで人が動く価値観が唯一のものではないからです。
もともとC.E.A.Winslowによる公衆衛生の定義は「公衆衛生とは(中略)、共同社会の組織的な努力を通じて、疾病を予防し、寿命を延長し、肉体的・精神的健康と能率の増進を図る科学であり、技術である」です。「科学」なので、仮説に基づいて運用・検証・訂正され、また新たな仮説に基づいて運用されます。「技術」なので、専門性があり、政治や経済が先導してはなりません。そして「共同社会の組織的な努力を通じて」行うので、公衆衛生は誰か特定の人間の専売特許ではありません。
つまり「公衆衛生には専門性が必要だが、特定の誰かのものではなく、検証を行う権利は万人に保証されているもの」と解されます。
公衆衛生の目的と役割
ここで私は、公衆衛生の目的はヒトを集団ごと守ること(地球環境も)、言い換えると衣食住を守ること、役割はリスクヘッジだと考えています。そもそもがもうかるかどうかで決めることや、お金を稼ぐことではないのです。自分たちのシステムは常に不完全だと自覚した上で、どうすればヒトを守れるだろうか、と考えます。ですから、ヒトを守るためのリスクヘッジが不可能なことには反対をしなければなりません。その最たるものが戦争です。公衆衛生は意思決定のシステムではありませんが、「公衆衛生上の価値観は何であれ決定するのは民主主義だから仕方がない」ということはなく、主義や場所に左右されない専門性を発揮することが役割です。
何をなすべきか
「臨床に戻りたいですか」とよく聞かれます。私は総合病院での初期研修の時から自分の仕事は臨床であり、地域医療であり、国際保健であり、公衆衛生であると思っています。臨床がエラい、保健所は閑職だ、という価値観は恣意的なものですから、そんな驕った臨床なら「戻る」に値しないでしょう。臨床も公衆衛生も「場所」ではなく、コンセプトでありマインドです。今も初期研修の頃からのマインドは変わっていないので、戻るという言葉は当てはまらないと思っています。役割を果たすことができれば場所はどこであっても構わないからです。ましてや学位や資格で条件付けされるものではありません。
狭く閉じた世界で、「自分さえ良ければそれで良い&特定の誰かには認められていたい」という自己認識の誤りが瀰漫しています。「公衆」衛生は不要とばかりに、虐待も貧困も人ごとなまま、プロフェッショナルオートノミーは機能せず、緊縮政策によって階級を固定化し続けています。分不相応な贅沢が資源を使い切るまで続いても、それは幻想の贅沢です。ここは生き延びられるようにリスクヘッジすることが役割です。人材育成は趣味ではなく、育成しないとヒトが死ぬのです。具体例を示せずに字数が尽きましたが、これが実感です。
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